Discover 江戸史蹟散歩
 
 赤坂藩屋敷跡

  ○ 萩藩毛利家下屋敷檜坂
  ○ 広島藩松平家下屋敷
  ○ 勝海舟邸跡
  ○ 勝安房邸跡(勝海舟終焉の地)
  ○ 勝海舟展示品
  ○ 勝海舟・坂本龍馬の師弟像


檜町公園(萩藩毛利家下屋敷跡) 港区赤坂9-7-9

 檜町公園や東京ミッドタウンは江戸時代に萩藩毛利家の下屋敷があった地です。
 ちらほら石垣が残っています。
 2000年に防衛庁が市ヶ谷に移転し、東京ミッドタウンが整備されました(2007年3月open)。

     
 

檜坂 港区赤坂6丁目・9丁目

 「江戸時代には、檜の木が多いため檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸に添う坂であった。」
  港区、平成十九年三月(坂下の標識)、平成五年十月(坂上の標識)

     


一ツ木公園(広島藩松平家下屋敷跡) 港区赤坂5-5-26

 広島藩松平家(本姓浅野家)の下屋敷だった場所は一ツ木公園となっています。

     

     


勝海舟邸跡 港区赤坂6-10-41

 勝海舟邸跡は、木碑と説明板があるだけです。

   
 

<勝海舟邸跡の記>

(説明板)
「勝海舟邸跡の記
 港区赤坂六丁目一○番三九号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が安政六年(一八五九)から明治元(一八六八)年まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当所居住中の一○年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。
 海舟は号で、名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。
 海舟は文政六年(一八二三)本所亀沢町の旗本屋敷=墨田区両国四丁目の両国公園の地=で、貧しい御家人の子として出生。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂二丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚二十三歳で赤坂田町中通り=赤坂佐三丁目一三番二号のみすじ通り=の借家で所帯を持った。
 三十六歳からは赤坂本氷川坂下=もとひかわざかした、のちの氷川町=のこの地に住んだ。
 明治元年四十五歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治五年再び上京し、満七十六歳で亡くなるまで赤坂区氷川町四番地=赤坂六丁目六番一四号=に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら「氷川清話」などを残した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成五年(一九九三)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。
 当所に住み始めた翌年の安政七年(一八六○)、幕府海軍の軍艦頭取=威臨丸艦長=として、上司の軍艦奉行木村攝津守、その従僕福沢諭吉らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
 文久二年(一八六二)十一月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
 明治元年三月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。第一回会談は高輪の薩摩藩邸=品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪三丁目のホテルパシフィックの地=で行われた。第二回については柴田町薩摩藩邸=のち三田四国町、現港区芝五丁目芝税務署辺りの地=または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷の表側にある民家=港区芝五丁目の三菱自動車ビル周辺=で行われたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。
 明治維新では、明治元年五月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞枝(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木一丁目に、次いで洗足池畔の大田区南千束一丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。墓は洗足池に面して造られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。
  平成七年十一月吉日
    ソフトタウン赤坂理自治会
        撰文 伊波新之助
        協賛 勝海舟顕彰会
        協力 港区郷土資料館」

  


勝安房邸跡 港区赤坂6-6-14(赤坂子ども中高生プラザ)

 勝海舟は23才で結婚した翌年に、赤坂で最初の赤坂田町中通(現在のみすじ通りあたり)に引っ越しました。
 その後、安政6(1859)年の36歳から明治元(1868)年の45歳まで、赤坂氷川神社の下に住んでいました。
 そして、徳川慶喜とともに静岡に移住した後、明治5(1872年)に再び東京に戻った際に、ここに住み晩年を過ごしました。
 石碑の脇にある大きな銀杏は、勝海舟邸の中心部にあったものを移植したものです。
 また、建物の中には、勝海舟邸を発掘調査した際に出土した陶器類が展示されています。

    
 

<史蹟 勝安房邸阯(勝海舟終焉の地)>

 (表面)
 「史蹟
  勝安房邸阯
  勝海舟伯終焉ノ地ナリ
  昭和五年十二月  東京府」

   

 (裏面)
 「氷川小學校後援會敬建
  昭和八年十二月
  東京市長牛塚虎太郎書」

   

(説明板)
「東京都指定旧跡
 勝安房邸跡
 この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治五年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遺しました。その時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成五年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成十五年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
  港区」

   
 

<氷川邸之図>(氷川清話より)

  


○ 勝海舟展示品 港区赤坂6-6-14

 勝海舟邸跡の発掘調査の品々の展示と、説明パネルがあります。
 左手が氷川小学校の資料展示、右手が勝海舟の展示となっています。
 照明が落ちているので、自分で照明のスイッチを入れます。

    

    
 

<勝海舟邸跡の発掘調査>

   

    
 

<「赤坂氷川町4番の勝海舟」「年表で見る勝海舟と港区」>

    

   

(説明板)
「赤坂氷川町4番の勝海舟
 明治5年(1872)5月、勝海舟は赤坂の旧柴田邸(赤坂氷川町10番地、のちに4番地となる)に居を構えました。同じ月、海舟は海軍大輔に任ぜられ、さらに翌6年(1873)年10月、参議兼海軍卿に昇進します。明治8年(1875)11月、海舟は明治政府の中枢部から離れて行きますが、明治20年(1887)5月に伯爵を授けられ、翌21年(1888)年4月には枢密顧問官に任ぜられると、死去するまでその職にありました。明治政府とのかかわりをもつ一方で海舟は、徳川一門や旧幕臣に対して経済面などを支える世話役をしていました。また、旧幕府にかかわる史料を収集して「吹塵録」「吹塵余録」「開国起原」などを編さんしました。晩年には、ここ氷川邸で海舟が語った数々の談話が、新聞・雑誌などに掲載されて話題となりました。
 江戸幕府の最後、そして明治時代を生き、眺め続けた海舟は、明治32年(1899)年1月19日、氷川邸でその生涯を閉じました。
 旧氷川小学校校庭の発掘調査では、氷川邸に関連する新旧2時期の遺構が検出されました。遺物はあまり多くありませんが、建物の基礎に用いられたレンガや、日々の生活に使われた陶磁器などが出土しています。」
 監修:吉原健一郎
 作成:辻まゆみ(文教大学講師)・港区立港郷土資料館」

  

「年表で見る勝海舟と港区」
 文政 6 1823  1月31日、本所亀沢町に生まれる。
 天保 9 1838      家督を相続する。
 弘化 3 1846      春、本所から赤坂田町に転居する。
 嘉永 3 1850      赤坂田町に私塾を開く。
 嘉永 6 1853  6月3日、 ペリーが浦賀に来航する。
         7月、  「海防意見書」を提出する。
         8月28日、内海御台場の築造が始まる。
 安政元 1854  3月3日、 日米和親条約が締結される。
 安政 2 1855 10月2日、 安政の大地震。
 万延元 1860  1月13日、咸臨丸で、遣米使節として派遣される。
 慶応 3 1867 10月21日、大政奉還が布告される。
 明治元 1868  7月17日、江戸を東京と改称する。
 明治 2 1869  7月13日、安房守を安芳と改める。後に安芳を本名とする。
 明治 5 1872  5月2日、 柴田七九郎と屋敷譲渡のことを話し合う。
         5月23日、柴田七九郎へ家作譲り受け代500両を渡す。
         5月29日、赤坂の旧柴田邸に転宅する(のち赤坂氷川町10番地となり、さらに変更後4番地となる)。
         9月12日、新橋・横浜間の鉄道が開業する。
 明治11 1878 10月1日、 勝家の屋敷内に、ホイットニー家のための家の建築が始まる。
 明治20 1887 12月、  「吹塵録」成る。
 明治27 1894  8月1日、 日清戦争始まる(〜1895年)。
 明治30 1897 11月、  「氷川清話」初版が出版される。
 明治32 1899  1月19日、勝海舟、没す。
         2月13日、氷川町4番地を、勝安芳(海舟)から勝精が相続する。
 明治37 1904  2月10日、日露戦争始まる(〜1905年)。
 大正14 1925 11月4日、 氷川町4番地の面積が2330.35坪から2462.92坪に訂正される。
 昭和 2 1927  7月29日、赤坂区会において、氷川尋常小学校を移転改築すること、
             その敷地として氷川町4番地伯爵勝精所有の宅地2462.92坪のうち
              1668.45坪を買収することが決議され、移転のことが決定される。
        11月、  氷川町4番地に氷川小学校の位置変更指定。
        12月5日、 氷川町4番地を1668.45坪(4番11)と794.47坪(4番12)に分離する。
        12月7日、 氷川町4番ノ1、所有権が勝精から東京市赤坂区に移り、公立学校敷地となる。
 昭和 6 1931  3月、  新校舎落成。
        12月11日、海舟終焉の地として、東京府史跡に指定される。
 昭和 8 1933 12月、  氷川小学校校庭に、記念碑が小学校後援会によって建設される。
 平成13 2001  7月23日、旧校庭内で発掘調査が開始される。
 平成15 2003  3月31日、勝海舟関係文化財展示コーナーが開設される。

  
 

<グランドピアノ>

 明治時代のグランドピアノが展示されていました。

(説明板)
「日本ではじめてピアノが製造されたのは明治33年(1900)です。グランドピアノは明治35年(1902)に製造が開始されました。
 このピアノはそのときのものと思われます。(日本楽器)
 昭和6年(1931)旧校舎落成の折、当時隣にお住まいだった九条家から寄贈されました。」

   


勝海舟・坂本龍馬の師弟像 港区赤坂6-6-14

 平成28(2016)年9月に、勝海舟と坂本龍馬の師弟像が建立されました。
 海舟像は座った姿で、龍馬は立像です。

     

     

     

(説明板)
「「明日に向かって」
  勝海舟・坂本龍馬の師弟像
 この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。
 海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳〜46歳)で、龍馬 (26歳〜31歳)は海舟を師と仰いで慕い緊密な交流があったようです。
 この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。 当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。
 また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。
 海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
 銅像の細部を見て頂くと、海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。また、海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐)を絡めて刀をぬけないようにしています。剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。
  勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会

 この銅像の建立にあたっては、「勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに
 赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家 山崎和国氏
 に製作をお願いし2016年9月(平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。」

     


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