○隅田川神社
治承の頃、源頼朝が関東下向の折、暴風雨に遭い、当社に祈願したと伝えられています。
「水神社」「水神宮」「舩霊社」「浮島宮」などとも呼ばれ、「水神さま」と呼ばれ崇敬を集めました。
船頭や荷船の水運業や船宿など川で働く人たちの信仰を集めただけでなく、
「水神」の名から水商売の人々にも信仰されました。
現在の立地は、元々木母寺の境内だったところで、料理屋「八百松」がありました。
(下流の向島枕橋に、八百善で修行した小山松五郎が、明治3年に支店、八百松を開業しています。)
<隅田川神社一の鳥居> 墨田区堤通2-6,7
墨堤通りに面して隅田川神社の一の鳥居があります。
「水神社 舩霊社」石碑が左手に、「水神道」石碑が右手にあります。
「水神社 舩霊社」石碑には、「蜂印香竄葡萄酒 醸造元神谷〜 明治32年10月」などと刻まれています。
蜂印香竄葡萄酒については、神谷傳兵衛の足跡(オエノンホールディングス株式会社)がわかりやすい。
神社仏閣にも多くの寄附をしたそうなので、捜せばまだまだあるでしょう。
都営東白鬚アパート6号棟と7号棟の間、防火壁を抜けていく水神道(参道)です。
さらに東白鬚公園内と参道が続きます。
<水神の森>
(説明板)
「水神の森跡
荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつては鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親しまれていました。
昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。
水神の森は『江戸名所図会』にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々には隅田川の入口の森として、川をさがのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。
その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。
平成十九年三月 墨田区教育委員会」
<二の鳥居・社号塔>
<三の鳥居>
手水舎は鉄分が少々あるかな。
<境内社>
錨が奉納されています。
江戸名所図会のタイトルにもあった「若宮八幡」は、荒川放水路開削により、
ここ、隅田川神社へ遷座しています。
<百度拝参標>
裏を見ると、「明治二十四年六月建之 八百松」とあります。
木母寺に「八百松」の標柱がありましたが、ここにも八百松の名残がありました。
<神使の亀>
獣首で、中国の伝説上の生物「贔屓(ひいき)」です。
石碑の台になっている「亀趺(きふ)」は、向島の弘福寺(寺号標と墓碑2つ)や、
ホテル椿山荘東京(山縣有朋「椿山荘の碑」)などで見かけましたが、
石碑を背負っていない「贔屓」は初見です。
左
右
(参考)亀趺
境内に亀も祀られています。
<拝殿>
「水神社 舩霊社」と二神を祀っています。
<力石>
<建久年間坐跡>
建久年間坐跡は、文政2(1819)年3月の建立。
頼朝が隅田川を渡河したことに因んでいます。
「建久年間坐跡
隅田郡總鎮守
水神宮 是ヨリ西
二町余
山東庵京山建」
元は別の場所にあった道標ですね。
<花香月影碑>
水神社の宮司矢掛弓雄の「隅田川八景」が刻まれています。
<無琴道人墓銘>
文政2(1819)年建碑。亀田興(鵬斎)の撰文です。
<不詳>
<医学士須田君之碑>
隅田川を背にして建つ2つの巨碑の左側、眼科の須田医学博士の碑。
明治30年建碑。文部大臣蜂須賀茂韶題額、陸軍軍医総監石黒忠悳撰文。
<佐佐木莊助君之碑>
隅田川を背にして建つ2つの巨碑の右側、佐佐木莊助の顕彰碑。
明治28年建碑。篆額は前島密が揮毫しています。
飛脚問屋が集まり創業した後の内国通運会社(現在の日本通運)社長でした。
<吟香岸田翁碑>
明治44年6月建碑。
<頌徳碑>
坂田源次郎翁の頌徳碑。大正12年建碑。
漢文で内容確認せず。
<日露戦役三十周年記念樹>
日露戦役30周年記念樹の碑があります。
木母寺の横には日露戦役の大きな碑があります。
<川向かいの鳥居>
関東大震災で倒壊し再築された鳥居です。
「奉納 大正十弐年九月一日 震災倒壊再築」
<東京府史蹟 水神の森>(東京府編 洪洋社 大正8(1919))
大正8年発行「東京府史蹟 水神の森」に掲載されている水神の森です。
2枚目は鳥居部分の拡大です。川からも参拝できるようになっていました。
<江戸の今昔 水神社>(歌川広重 湯島写真場 昭和7(1932))
昭和7年発行「江戸の今昔」に掲載されている水神社です。