隅田川西岸に真崎稲荷、石浜神明宮、橋場の渡が描かれています。
隅田川東岸に水神、御前栽畑、丹頂の池(丹頂鶴を放っていた池)、梅若塚、木母寺、墨田堤が描かれています。
<都鳥>
都鳥(ゆりかめも)が飛んでいます、泳いでいます、船縁にいます。
船縁にいるかもめは人を怖がっていませんね、人を恐れず近寄ってくるのは昔も今も変わらず。
向島は将軍の御鷹場だったので、許しなく鳥を獲ることは禁じられていました。
江戸庶民は都鳥は「カモメ」だと知っていたので「鴎だといふと名所とならぬとこ」と川柳に詠まれています。
本来の都鳥でしょうか、黒い鳥も飛んでいます。
隅田川上流から下流を眺めた鳥瞰図です。
右下に水神、木母寺が描かれています。
水神は、小高い山となっています。浮島の由縁です。
真先稲荷境内の田楽屋から隅田川の対岸を見た構図です。
水神の森と内川、筑波山が見えます。筑波山の下のほうが関谷の里です。
○武蔵百景之内 隅田川水神森(小林清親 明治17年)
小林清親が広重と同じ構図で水神森を描いています。
近景に明治に大流行した月琴が描かれています。
○名所江戸百景 隅田川 水神の森 真崎(広重)
墨堤の桜から、手前に水神の森、隅田川対岸に真崎稲荷、遠方に筑波山が描かれています。
ここからは筑波山は右手なので見えないはずですが描かれています。
○絵本江戸土産 水神(すいじん)の森 真崎(まつざき)の社(やしろ)(広重)
○新撰江戸名所 隅田川堤白雨之図(一立斎広重)
題名には地名は記されていませんが、
上記絵本江戸土産と同じ構図で、水神宮の鳥居が見えます。
「木母寺に歌の会ありけふの月 其角」
「回国雑記 いにしへの塚のすがたあはれさいまのごとくにおぼえて
古塚のかげ行水のすみだ河聞きわたりてもぬるる袖かな 道興准后」
この辺りは「隅田宿」という宿場があったとされる場所です。
吉宗は木母寺から三囲神社まで桜を植樹し、桜の名所で墨堤と呼ばれていました。
其の一と其の二を合成
<木母寺/梅若塚>
木母寺/梅若塚部分を拡大。
<茶屋>
梅若塚の左に茶屋が集中しています。
有名な料理屋として「植半」や「武蔵屋」がありました。
<水神宮>
隅田川沿に、水神(現在の隅田川神社)が見えます。
<御前栽畑>
水神宮から内川を渡ったところに「御前栽畑」があります。
江戸城へ納める野菜を作っていた畑です。
<若宮八幡>
題名にある「若宮八幡」は、荒川放水路開削により、隅田川神社へ遷座しています。
木母寺は右奥にあり描かれていませんが、木母寺境内にあった料理茶屋と、内川、御前栽畑が描かれています。
隅田川で舟を下りて、芸者が料理茶屋「植半」に向かっています。
内川の左手が、江戸城で使用する野菜を栽培していた御前栽畑です。
現在の梅若橋付近が御前栽畑でした。
「植半(植木屋)」は御鷹場の番人で、隅田御殿跡で料理屋を営み繁盛しました。
「江戸買物独案内 飲食之部」(文政7(1824)刊)
○戸高名会亭尽 木母寺雪見(広重)
上記錦絵の雪見バージョン拡大版です。
○絵本江戸土産 木母寺 料理屋 御前栽畑(ごぜんさいはた) 内川(広重)
広重の解説付の絵です。
木母寺(もくぼじ)、料理屋、御前栽畑(ごぜんさいはた)、内川(うちがわ)が描かれています。
「この寺内に梅若の塚あり。毎年三月十五日念仏供養をなす。
境内名高き料理やありて四時賑わう。北にあたりて御前栽畠といふあり。此の所に作りし松多くあり。
尤美景云うばかりなり」
○東都 高名会席尽 植半 猿島惣太(広重・豊国)嘉永6(1853)年
「東都高名会席尽」は、江戸の料理屋50軒について、歌舞伎役者を歌川国貞(三代豊国)が、
料理屋を歌川広重が描いています。2名の浮世絵師の合作です。
「植半 猿島惣太」ですが、広重作成部分を拡大すると、植半と店名が入っています。
かもめが泳いでいます。
○絵本江戸土産 木母寺 梅若塚(広重)
梅若由縁を解説しています。
木母寺の本堂は左手で、梅若塚だけ描かれています。
梅若塚の左手の料理茶屋は、雲に隠れて1軒のみかすかに見えます。
左下には大きな石碑が3つ見えます。昔も碑が多かったのですね。
○江戸名所百人美女 木母寺(豊国・国久)
こま絵に木母寺が描かれています。
江戸名所図会「木母寺に歌の会ありけふの月 其角」とあるように、
屋根船に乗る美女は、植木屋か武蔵屋の料亭茶屋で催される歌会に向かっているところと考えられます。
歌の校正中の女流歌人のようです。風流ですね。
其の一と其の二を合成
綾瀬川が手前の千住川(隅田川)に流れこんでいます。
右上に丹頂の池が描かれています。
池の中央に島をつくり、幕命により丹頂鶴を放ち飼っていたので丹頂池と名付けられたと本文に記載。