○木母寺
「江戸名所図会 無題」
梅若丸の故事が描かれています。
「梅若丸七歳のとし比叡の月林寺をのがれ出て花洛北白川の家に帰らんと吟ふて大津の浦に至りけるに奥陸の信夫の藤太といへる人あきひとのためにすかしあさむかれてはるばるとこの隅田川に来ぬることは本文に詳らかなり」
「因に云ふ人買ひ藤太は陸奥南部の産なりとていまも南部の人はその怨霊あることを恐れて木母寺に至らざること矢口の新田明神へ江戸氏の人はばかりて詣でざるが如し」
「東都旧跡尽 木母寺梅若の由来」(広重)
広重が梅若の故事を描いています。
<梅若神社>
木母寺が廃寺となり、梅若神社と称していた時に、小林清親が「梅若神社」を描いています。
木母寺となった時も描いています。
井上安治も「梅若神社ノ雨」を描いています。
<梅若塚>
貞元元(976)年、梅若丸が亡くなった場所に、僧の忠円阿闍梨が墓石(塚)を築き、
柳の木を植えて供養した塚です。
(説明板)
「梅若塚の沿革
「たずね来て問はば答えよ都鳥すみだ河原のつゆと消えぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。
明治の世となり木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが同寺再興の翌年(明治二十二年)佛式に復帰しました。
現在地に遷座したのは、昭和五十一年で旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。」
<梅若念仏堂>
梅若丸の母、妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設したものであるといわれています。
(説明板)
「梅若堂(梅若塚拝殿)
この仏堂は、明治の廃仏で一時梅若神社とされた梅若塚が再び仏式に復帰した年、
すなわち明治廿二年の建立になります。
当寺一帯が全焼した昭和廿年四月の戦災にも焼失を免れた唯一の仏堂ですが、
その後の空襲で受けた爆弾々片による痕跡( 印)が所々見られます。
防災拠点内であるため木造建造物の存置は許可されず、覆堂内に納められることになりました。
なお、塚の二面に見える古い石垣は、さきの仏式復帰にあたり芳志を寄せられた人々の名を留めている
重要記念物として旧塚から移された玉垣であります。
昭和五十一年十一月吉日
梅若塚遷座に際し 住職謹誌」
<謡曲「隅田川」と木母寺>
謡曲史跡保存会の説明板があります。
(説明板)
「謡曲「隅田川」と木母寺
謡曲「隅田川」は、我が子の行方を尋ねさまよう母の悲劇をテーマにした狂女物の代表曲で、
探し求めた我が子は既に亡く、その墓前で亡き子の霊の声のみ聞く哀れさは、本曲の圧巻である。
梅若権現縁起に「梅若丸は吉田少将惟房卿の子、美濃国野上宿に生まる。母の名は花子五才で父を失い、
七才の時比叡山に登り修学中、人買いに欺かれ、ここ隅田川原まで来たが病を得、貞永元年三月十五日
此の地にみまかる。時に十二才、いまわの際の「尋ね来て問わば応えよ都鳥隅田川原の露と消えぬと」
との詠歌を哀れんだ天台の僧忠円が里人と計り、一堆の塚を築き柳一株を植えて標とし跡を弔う。
これが梅若寺の起源となる。慶長十二年(一六○七)梅の字を分けて木母寺と改名された」と書かれている。
謡曲史跡保存会」
<江戸の今昔 木母寺> 歌川広重(広重5世 1890-1967 東々亭主人) 湯島写真場 昭和7(1932)
昭和7年発行「江戸の今昔」に紹介されている若宮塚です。
右手に写っている石柱は植半の石柱で、現存しています。
<身代わり地蔵>
(説明板)
「「身代り地蔵尊」の由緒
この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、
民衆守護の願いを聞き届けられた、ゆかり深いお地蔵様です。
そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み、苦しみを察し、
身代わりとなって下さるという「代受苦の菩薩」としての信仰が古くからあります。
つらいこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、このお地蔵様に訴え、
「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください。
地蔵菩薩の御真言(お祈りするときの言葉・合掌して三たび唱える)
オン カカカビ サマエイ ソワカ
おん・訶訶訶尾・娑魔曳・娑婆訶」
<植半/八百松>
植半、八百松とも、かつての料理屋ですが、碑にその名前が残っています。
武蔵屋の碑もありそうですが、わかりません。
・「植半」(大正八年一月)
梅若堂の入口に建っています。
・「奉納 永代大念佛 植半」(明治十一年四月)
植半寄進の石塔です。梅若堂の横に建っています。
・「料理家八百松建之」(明治十七年十二月)標柱
<境内の諸碑>
(説明板)
「境内の諸碑
所在 墨田区堤通二丁目十六番一号木母寺内
「梅若塚」で知られる境内には、謡曲「隅田川」の碑など、三○基の石碑があり、
著名なものとしては次の諸碑があります。
◆華笠文京翁碑
幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、
弟子である仮名垣魯文が建てました。
◆天下之糸平の碑
高さ五メートル、幅三メートルを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八
(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。
◆三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治二十二年に建てた碑です。
題字は山岡鉄舟。銘文は高橋泥舟の書です。
◆題墨田堤桜花(墨田堤桜花に題す)の詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。
飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年、清水孝の書です。
文政十二年建立。
(参考)
「題隅田堤桜花
長堤十里白無痕
訝似澄江共月渾
飛蝶還迷三月雪
香風吹度水晶村」
平成八年三月 墨田区教育委員会」
以下は説明板以外の碑です。
<紀恩之碑>
<浄瑠璃塚>
文政4(1821)年建碑。
<東都俳風狂句元祖 川柳翁之碑>
四世川柳の建立。
<華渓先生禿筆之蔵并序>
文政3(1820)年建碑
<山井先生神遊之表碑>
<恆山先生武藝勒石記>
天保2(1831)年の建碑
<他色々>
<蛇身弁財天>
インパクトの強い蛇身弁財天です。