創建は元亀2(1571)年と伝えられます。
元々は元鳥越(現:鳥越2丁目)に、鳥越大明神(鳥越神社)の側に第六天(第六天榊神社)とともに熱田明神は鎮座し、鳥越三所明神と称されました。
正保2(1645)年に元鳥越の地は幕府御用地とされ、三谷村の北端(現:清川1丁目7・8番地)に氏子とともに移転し、この地は新鳥越町と呼ばれました。
その後、関東大震災で焼失し、現在地である今戸に鉄筋コンクリートで再建されています。
「江戸切絵図」
江戸切絵図では奥州街道沿に「熱田明神」と記載されています。
「山谷 熱田明神社」(江戸名所図会)
現在地へ移転前です。
門前の奥州街道は、千住通りと記載されています。
本文には「新鳥越にあり祭る所日本武尊一座なり 当社は往古元鳥越の地にありしが正保年中今の所に移れり 例祭は隔年六月十五日執行す」とあります。
<鳥居/社号標/社殿>
(説明板)
「熱田神社と大太刀「陰陽丸」(台東区有形民俗文化財)
台東区今戸二丁目十三番六号
本社は江戸時代初期以来、当地の鎮守であった。かつて元鳥越町にあったが(現在の鳥越二丁目あたり)、正保二年(一六四五)
当地に浅草新鳥越町が成立したことにともない移転して、当地の鎮守となった。新鳥越町は山谷堀の北側、千住街道(現在の吉野通り)に沿った町である(後の浅草吉野町)。
本社は町の北端に位置していたが(現在の清川一丁目七番・八番付近)、関東大震災後の区画整理のため、昭和二年(一九二七)十一月、現在地に移転した。
本社が所蔵する大太刀「陰陽丸」は、全長三六八・五センチの長大なものである。弘化四年(一八四七)、江戸小石川に住居する刀工、川井久幸が制作し、熱田神社に奉納した。宝刀として保存されるだけでなく、安政五年(一八五八)コレラ流行の時には、疫病を祓うため、本大太刀が
町内を巡航している。当時江戸の町々では、鎮守の神輿や獅子頭が町内を巡行するなど、それぞれに疫病除け行事をおこなっていた。当地では、鎮守の宝刀「陰陽丸」が疫病除けに最もふさわしかったのであろう。古老は「オンヨウマル」と発音していたという。平成二十二年、台東区有形民俗文化財に登載された。
平成二十三年三月三日 台東区教育委員会」
池の奥に芭蕉句碑があります。
「古池や蛙とびこむ水の音」
弘化3(1846)年3月建立の碑です。
草をかきわけ、ようやく撮れた写真で、存在を知らないと探し当てられない芭蕉句碑です。
<境内社>
弁財天社
豊川出世稲荷神社
狐塚